心身ボロボロになって会社を辞めた中高年のその後

 中高年(50代)で、心身がボロボロになって会社を辞めた人というは、その後、どういう人生を歩むのでしょうか?
世間一般の常識では、その後の再就職も厳しく、苦労の多い人生を送るように思われています。 実際、つぶしの効かない普通のサラリーマンでは、そうなる人も多いでしょう。そのため大手企業では、人員削減時に、数千万の退職金上乗せをしたりします。
(※うらやましいですね。私だったら数千万上乗せしてくれるなら即辞めて、新たな挑戦をします。)

(こちらの記事も参考にどうぞ「建設コンサルタントが早期リタイアしてのんびり暮らす方法(FIRE)」)

 50代の建設コンサルタント技術者で、社内の人間関係トラブル、体力低下、その他いろいろな問題が重なり、心身ボロボロになって辞めた人達がいます。
そういう人達がどうなったか、実例で述べたいと思います。

ケース1:50代 RCCM(技術士なし)

Aさんは、中堅コンサルに長年勤務し早期退職制度に応募し53歳で会社を辞めました。個人の意思ですが、実質リストラであり不本意の辞め方であったため、退職後、何もやる気が起きず、不摂生な生活を続けて、数か月後に体を壊してしまいました。
1年程度の生活費に相当する退職金の上乗せを貰っていたので、当面の生活はなんとかなります。 そこで、心を入れ替えて、お酒はやめて、朝からひたすら歩き回ったそうです。
すると少しづつ体力が回復し、最後は、重りを入れたリュックを背負い、毎日20キロ近く歩き回るようになりました。
そうした生活を1年続けるうちに、気力体力充実してくるのを感じ、ハローワークで就職活動を開始しました。
建設コンサルタントでの構造設計経験が長く、RCCM、一級土木施工の資格は保有していました。
建設コンサルタントには、就職できませんでしたが、小さな建設会社(ゼネコン)で500万の年収で採用されたそうです。
施工管理経験がありませんでしたが、毎日現場に張り付き施工管理を行いました。50代の初挑戦で苦労も多かったそうです。「施工図書作りがこれほど大変とは」とぼやいていました。
2年間ほど、小さなゼネコンに勤め、その後、出身地である関西方面に転職することにしました。
もう、56歳になっていたので建設コンサルタントへの転職は諦めていました。
そこで、私が、説得し、建設コンサルタントへの転職方法等をいろいろ助言しました(人材紹介業を始める前の時代です)。
すると、地場中堅クラスの会社に年収600万で採用が決まったとのことでした。
その後も建設コンサルタントで活躍し、現在は60代半ばですが、まだ現役でやっています。

(こちらの記事も参考にどうぞ「60代の建設コンサルタント業界の転職」)

ケース2:50代、技術士、RCCM

Bさんは、長年勤めた会社が経営破たんし、破たん後すぐに、大手コンサルタントに再就職しました。
初めての転職で、早く認めて貰おうと、猛烈に頑張りました。
それなりに成果を出して上層部の評価は得ましたが、転職先の同僚からは疎まれるようになりました。
最初から管理職の地位に付き、上層部の評価も高いことを面白く思わない人達もいたのです。疎外感を感じ、いろいろな人間関係のトラブルに巻き込まれるようになり、過酷な業務状況と重なって、心身共にボロボロになり、ついに限界に達して逃げるように会社を辞めました。
退職後は、虚脱状態で、何もする気が起きません。しかし、家に居たらだめになると知っていたので、毎日、昼間は公園行って、日光を浴びて、ぶらぶらしていたそうです。
一か月もすると、少し元気になって、公園で自重筋トレなど体を鍛えることを始めたそうです。そして半年後には気力体力充実して、新たな挑戦をしたくなりました。
もうこの時、55歳です。

(こちらの記事も参考にどうぞ「48歳定年の話(日本のリストラ考)」)

しかし、建設コンサルタントはもう懲り懲りという感情がありました。そこから不思議な縁で、海外開発系のコンサルタントに入ることになりました。
紛争が終わったばかりの途上国に派遣されて、難民再定住のための灌漑施設や道路などインフラ整備支援をやることになったのです。
契約社員、年収600万です。
実績も技術士もあり、安全な国内の建設コンサルタントで年収800万の転職もできたでしょう。
しかし、年収は低め、英語力ゼロで、危険な地域での仕事という、冒険的な選択をしたのです。
そこから3年間、海外で頑張りました。
そして、新たな価値観に触れ、とても充実した時を過ごしました。
何と55歳から英語力ゼロから勉強を始めて、3年後にはかなりの語学レベルになっていました。
途上国で日本人は一人だけ朝から晩まで英語漬けなので必死に勉強したそうです。

 開発コンサル転職の3年後の58歳の時、間近に迫った60歳になると大幅に年収が切り下げられることは明確であり、来年の契約更新はどうするか迷う状況にありました。

 その頃、当社に、外資の世界大手の建設コンサルタントより、人材の引き合いが来ました。そこで、Bさんに、その外資コンサルを紹介し、受けること勧めました。
面談の結果、経歴が高評価されて本社採用になりました。年収も大幅アップ、成果さえ出せばいくつになっても年収が下がることもありません。
世界中から来たエンジニアに囲まれて、国内の民間インフラ事業のコンサルタントとして活動しました。
Bさんは、もともと好奇心が旺盛で、元々構造技術者で技術士(鋼構造コンクリート)でしたが、道路、環境、都市計画のRCCMも保有し、広く、一通りのことができました。
入社後の評価は、インフラ設計、開発分野のことになんでも対応できる人として大変な高評価をいただいていました。
その外資コンサルの日本支社は、世界レベルのエリートや、経営コンサルタント、その他、独立創業などいろいろ挑戦してきている人達が集まっています。そうした人達と触れ合って視界が大きく開けてきました。
そこで、昔からの夢である独立をしたくなってしまったそうです。自由に動いて自分の力を試したくなったそうです。
もうその時62歳、1000万近い給与をいただき贅沢な話です。

 そこで、当社(私)にBさんから創業相談が来ました。もう外資コンサルを辞めて会社も設立してしまったというのです。行動早っ!
もう辞めてしまったのであれば仕方がない、支援をさせていただくことにしました。
助言等を含めて支援をしましたが、当社から技術・業務指導者を欲している地場の中小企業に紹介しました。
構造、道路、都市計画と何でも指導できて、建設コンサルタント業務を知り尽くしている人材として、大変重用されています。
さらに、外資コンサル時代の顧客であった、アジア某国の財閥から誘いがかかって、顧問になったというのです。
またそこに、某インフラ投資銀行から年収2000万で誘われたというのです。でもそこは大変そうだったから断ったとか、勿体ない話です。

 60代で独立、会社を設立し、これまでのキャリアを存分に生かし、技術指導や、財閥顧問といった形で活躍し、年収1000万超え、しかもかなり自由度の高い生活を満喫しています。
さらに、新事業を目論んでいるようです。四毛作とも言える密度の濃い人生です。

 今も私と時々、情報交換(飲み)をしていますが、そのたびに「今が一番充実している」「こんな世界があるとは知らなかったんだよ」、「あと10年早く気づければな~」とぼやいています。

 以上の二つの実例を挙げて来ましたが、共通する点は、空白状態に陥った後、家に籠らず、外で運動をしていた点です。そうして、半年~1年程度で気力体力充実してから挑戦を始めています。
やはり、長年のサラリーマン生活で燃え尽きた人が復活するには、一旦空白になり体を鍛えまくっても、半年~1年くらいは掛かるものなのかもしれません。

 さて、両名とも無職時代の感想ですが、「不安で一杯だったが、今思い出すと、本当に楽しかった」と言っています。
50代無職、肩書も収入も気力も体力も失い、先行きも分からない状態(おまけに家庭もある)というのは、とてつもなく不安が大きい状態ではありますが、まず、やれること、外を歩き回って、体を鍛えて、ほんの少しずつ復活を実感してくる。
そうしながらも、これまでの人生を見つめ直し、これからの展望を考えるといった経験は、その後、何物にも代えがたいものとなります。

そして、一度どん底まで落ちて、そこから復活した経験をすると、チャレンジが怖くなくなります。健康でさえあればなんでもできると自信がつきます。
地位や収入、社内のライバルとの競争、勝ち負けにこだわっていた人物が、一回りも二回りも大きくなります。

 建設コンサルタントの技術者で、業務能力、資格もあるけど、もう気力も体力も自信がないという人、今後の人生の選択のご参考になれば幸いです。

過去記事も参考にどうぞ

燃え尽きてしまったサラリーマンは今後どう生きるか

このコラムをシェアしていただけると嬉しいです。